愛と節操のなさ。

当面やる気なし。
↑のタイトル募集中。

スポンサーサイト

2011.02.06 Sunday

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | - | -

現代詩は難しい?

2008.09.16 Tuesday 13:30
という問いには自分なりに一つの結論を持っている。

「現代詩は難しい?」
と聞かれたら、いつもこう答えるようにしている。
「難しいものもあるよ」と。


以前こんなことを書いた。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=11908

要は、「言葉」という道具の使い方が、
詩を書く場合と日常とでは違うという話だ。
そしてそれは“違う”だけであって、
実は、そこに難易は関係していない。

わかりやすい言葉で書かれた“現代詩”はいくらでもある。
そしてそれらは、きちんと“現代詩”として認められている。
(もちろん「わかりやすい」と「ありきたり」は別の概念だ)
現代詩の間口は、たぶん、思っている以上に広いよ。うん。


んー。概念で説明していってもピンと来ないと思うので、
著作権無視で(笑)いくつか紹介していこうと思う。
ちょっと古いのもあるけど。

まず、以前現代詩フォーラムで紹介したのを3つ。リンクで。

石垣りんさん「シジミ」
ま、有名なやつ。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=33980

吉野弘さん「祝婚歌」
この人も有名。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=66336

小山正孝さん「雪つぶて」
この人はちょっと古いかも。でも戦後に書かれた詩です。
小山正孝さんは、
1991年に現代詩文庫から詩撰集が刊行されて、
2000年に丸山薫賞を受賞しています。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=41496



新しい人だと、たとえば杉本真維子さん。
この人は現代詩手帖賞受賞者で、
また、「袖口の動物」という詩集がH氏賞を受賞しています。
ここでは処女詩集「点火期」の中から、「あな」という詩を。
昔、岡田有希子というアイドルが飛び降り自殺したのですが、
それを題材にしています。



あな


四谷三丁目、サンミュージックビルの前を友達と通った。
ねえここでしょ?
そうここここ。
ここで自殺したんだよね。
そうここで自殺したんだよ。
たしか頭はこの辺りで、足はこっち向きだったよね。
うん、あの週刊誌で見たよ。
こんな感じ、だったよね。
そう…いやでもちょっと違う、腕はたしか上げてたって。
え、じゃあこう? あ、ちょっと待って、
こうだ、で、顔はこうやって右を下にしてたんだよ。
わたしは、黒いマジックを取り出してそのまわりを囲んだ。
できた?
できたよ。

そうだよね、ここだよね、ここでこんなふうに死んでたんだよね。
友達は返事をしなかった。
そしてそのまま、二度と起き上がらなかった。




次は同じH氏賞つながりで、
山本純子さんの「あまのがわ」という詩集から「牧場にて」という詩を。



牧場にて


たんぽぽと
はこべと
なずなを花束にして
やぎに贈ろうとしたら

やぎったら
うれしがって
ずんずん近づき
なんどもわたしの足を踏んづけた

雲をながめて野原を歩き
小川ではだしになろうとしたら
革ぐつのそこにもここにも
やぎの足あと

春の花束は
なんてすてき
とハートの形の足あとが
そこにもここにもつけてあった




次。北川浩二さん。
詩学新人で、ミッドナイトプレスから「涙」という詩集を出してます。
その中から「願い」を。



願い


だれもがほんとうは願っている
心に
小さな灯りがともったり
そばにいて
くれるだけでよかったり
ほんとうは願っている
これ以上何も言わなくてもよくなって
涙が浮かんだり
自分の一番いい所が
素直に出せたりすること
ほんとうは
生きることがよかったり
何か 思ってくれていたりすること

そして だれもが
ほんとうはもう願わなくともすむようにと




またちょっと有名どころに戻って、工藤直子さん。
「日本のライト・ヴァース」という編詩集(アンソロジーって言うのか?)から、
「ライオン」という詩を。短いです。



ライオン


雲を見ながらライオンが
女房にいった
そろそろ めしにしようか
ライオンと女房は
連れだってでかけ
しみじみと縞馬を喰べた





あとなぁ、いや、まだいっぱい紹介したいのあるんだけど、
残念ながら手元に詩集がありません(泣)。
んー、平田俊子さんの初期の作品群とか、
今はもう詩を書いてないけど、
榊原淳子さんって人の詩も紹介したいし、
高見順賞を受賞した田口犬男さんの「モー将軍」という詩集も
なかなかいいです。
機会があったら、ぜひ。



というわけで、何の話だったっけ?(笑)
えーと、そう。
「現代詩は難しい」と言う人がときどきいますが、
俺はやっぱり、「難しい詩だけじゃない」と、
声を大にして言いたいです。
実際、ここで紹介した作品は全部、
「現代詩」という括りで扱われています。
読んでみてどうですか?
「現代詩」という概念が、ちょっと変わってきませんか?
もしちょっと変わってくれたら、紹介した甲斐があるというものです。

ま、そんなところで。
詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

4wheelsへの反論

2008.06.10 Tuesday 13:46
妖怪の一本指さんから4wheelsへの反論をいただいたので掲載いたします。
コメント等はもちろんご自由に。
活発な意見交換が行われれば幸いです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

岡部淳太郎さま、ならびに、いとうさまへ

「インターネット、リーディング、詩集、同人誌、それぞれ4つの方面から、4名が、毎月順番に、気になる詩、詩人などを紹介していくコーナーです。」として、「4wheels」という記事を読ませて頂いております、妖怪の一本指と申します。

久谷雉さんの詩集のレビューを読む前に、紹介された詩集を手に入れてしまったり、北爪満喜さんの詩誌評を読んで「ああ、読みたいな」と思っても、詩誌を手に入れるためには大変な覚悟と苦労がいるなあ、と諦めたり、服部剛さんのレビューを読んで、ああ、今更、上京しても無理か、など、
妄想にふけりながら読ませて頂いているのですが、インターネットを担当されている岡部純太郎さんの執筆分だけは楽しく読ませて頂く事が適いません。一回目はネット詩概論ということで、岡部さんのネット詩に対する所感、考え方しかお伺いできません。では二回目から具体的にインターネットから具体的なレビューが、と、鹿猟の気分で気長に待っておりましたら、「現代詩に多くの価値を見出し」ながらポエムの批評として三篇を紹介して頂けました。

岡部さんの使われる言葉の定義についても、私個人の価値基準に関しても、また、岡部さんと私の生き方も憤りを感じ得ないほど隔絶していることを、私は痛烈に感じておりますが、とはいうものの、確かに、私は岡部さんが書き手に無断で他のサイトに転載をされた上で陰口として批評された作品を、あらためて私が批評することは、岡部さんの批評の視点とは別に、関心がない、という理由で多分無いでしょう。岡部さんの紹介された作品は私の視点として組み立て方が多少変ということだけであって、極端に嫌いな作品でもないけれど、私が称揚する作品では決してありませんし、インターネットだけの作品でもなく、古書店では私家版の詩集として見かけることがあります、アンソロジーの新刊として書店で買ったこともありますし。

しかしながら、私がクレームとして申し上げたいのは、岡部さん以外の現状の「リーディング・詩集・同人誌」、それから、岡部さん以前に担当されていたいとうさんのインターネットのレビューはお勧めとして記事が書かれているのに、なぜ、インターネットの担当が岡部さんになって、岡部さんの愚痴を読まないとならないのか、という事に尽きてしまいます。

私が知りたいのは、「インターネット、リーディング、詩集、同人誌」だの、「現代詩、ポエム、詩」の色分けの基準なんかじゃありません。
字の一個たりともなくても面白ければ、私は現場に行くでしょうし、身上売り払っても買い求めます。

 >奇しくも『poenique』の自由詩投稿掲示板は「やみなべ」と題されているが、そうしたごった煮の面白さが「ネット詩」の面白さであり、それを楽しむことからしか「ネット詩」は始まらないと思うのだ。

 と岡部さんは第一回の終わりで書かれていますが、自由詩投稿掲示板が醍醐味であると、私は経験しておりません。実行すれば、馬鹿みたいで苦しいけれども、原始的で無茶苦茶楽しい遊び方を私は経験してきました。とは申し上げたものの、サディスティックな一本指ルールを薦めたいわけではありません。

何より私は「4wheels」で岡部さんのお勧めをお伺いしたいのです。
私は前担当のいとうさんのインターネットのレビューを読んで一々感心したわけではありません。申し訳ありませんが読ませて頂いても右から左に通り過ぎて行きました。私は臍が曲がってますから、大概の批評は疑いますから、岡部さんのお勧め批評も、やはり右から左に流すかもしれません。しかしながら、「4wheels」に関しては岡部さんのお勧め批評には、私は触れておりません。

いとうさんの編集方針として、インターネットからの詩の批評でなければダメ、というのが、多分、妥当な考え方でしょう。
でも、改めて申し上げますが、インターネットの詩は「やみなべ」のような自由詩投稿掲示板が全てではないと私は思います。
出版された詩集を纏めていらっしゃる詩人や評論家のHPやブログだってあります。
私は日本語しかわかりませんが、海外だってあるでしょう。詩を扱う他の表現の人々もいます。
探すのは大変だし、出会うのも大変ですけど、機会は制約されるものではなくて、切り開けるものだと思います。
岡部さんの現状の担当に関しては大いに憤りを感じる私ですが、ご関係の皆様にご一考を頂ければ幸いです。

                                                             妖怪の一本指

詩の話 | comments(63) | trackbacks(0)

訃報。

2007.12.02 Sunday 03:04
仕事から戻ったら情報が飛び交ってました。
寺西さん、死亡とのことです。死因は脳内出血。
なんだかうまく書けない。


詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

詩と思想2007年7月号インターネット時評、あるいはネット詩爆撃プロジェクトについて。

2007.06.30 Saturday 13:19
詩と思想2007年7月号のインターネット時評を読んでちょっと違うんじゃないの、あるいは補足しといたほうがいいかもと思ったので記す。

その前に、ネット詩爆撃プロジェクトでの俺の役割は、スタッフとして、投稿するサイトを選定する役目を持っていただけであって、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。と書いておかないと、いまだにそのあたり、まるで中心スタッフであったかのように誤解して攻撃してくる人たちがいるので。

また蛇足だけれど、選定の過程にあたっては、投稿するに適した複数の条件を提示して、それに当てはまるサイトを機械的に選んでいったのであって、そこに俺自身の恣意的な意思はまったく入っていません。これも、何か誤解して攻撃してくる人がいまだにいるので。


で、時評では、ネット詩爆撃プロジェクトがネット詩と現代詩を対立、あるいは敵対させたというふうに書かれているけど、同プロジェクトの趣旨は逆に、両者をつなげようとするものでした。そこははっきりさせておきたい。

プロジェクトに対する反応は、その狙い、趣旨から大きく外れたものであって、その点では、失敗に終わったと言えるでしょう。反応は大きく分けて2つ。

1.現代詩を敵視する反応
2.現代詩、ネット詩という区分は無意味だとする反応

なので、「ネット詩爆撃プロジェクトが現代詩を敵対する人たちを浮き彫りにした」とは言えるけれど、「ネット詩爆撃プロジェクトがネット詩と現代詩を対立、あるいは敵対させた」とは言えないんじゃないだろうか。そのへん、インターネット時評でなんか誤解があるように感じる。少なくとも前述のように、趣旨がまるっきり逆であったのは確かです。


また時評は「ネット詩fについて」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=100523をベースに書かれてあるようで、この批評を読み返すと、

「ネット詩、対、現代詩という、それまで漠然としていた対立の構図がはっきりと明示されたのは、明らかに爆撃が一つのきっかけだった。」

「最初は紙媒体とネット媒体の対立だったものが、単なる発表媒体の違いを超え、現代詩に「Vs」するためのネット詩fとして、変容を迫られていた。」

「現代詩に対立するものとしての、ネット詩fの確立運動。」

と、ベースとなる表現がいくつか見られる。その内容に関しては、とりあえず是非は問わないけれど、俺自身は、ネット詩fが対立、敵対の構図を持つものなら、そんなものに組したくはないし、個人的にはずっと、対立ではなくて融合に向けて動いてきて、今でもそのように動いていると確信しているし、だからこそプロジェクトのスタッフとしてお手伝いさせてもらったとも言えるかもしれない。



ちなみに全然別件になるけど、「ネット詩f」で

いとう氏は『「我々を見て欲しい」という“声”が「ネット詩」という言葉を生み出したのではないだろうか』と考察している。
 しかしその声は「どこ」からきて、「いつ」ごろから言われるようになったのか。上の見解には、空間的、時間的な視点が存在しない。ひとまずこれを時間軸に置き直すならば、まず媒体区分としてのネット詩が存在し、その次に「主体的な思い、願い」の込められたネット詩という言葉が形作られたと考える方が自然だ。

とあって、俺自身の考察を補足しとくと、俺自身がネットの前にパソコン通信で詩を書いていたことが大きく関与していて、「パソ詩」とか、「通信詩」とかそういう言葉がなかったのに、俺がネットを見るようになった頃(1998年頃)すでに「ネット詩」という言葉があったことが、とても不思議なのですよ。

「まず媒体区分としてのネット詩が存在し」とあるけれど、そこがまず不思議でしょうがなかった。パソコン通信では媒体区分としての名称がないのに、ネットではある。最初にそれが不思議で、だからこそ、『「我々を見て欲しい」という“声”が「ネット詩」という言葉を生み出したのではないだろうか』という、別軸からの視点での考察を行った経緯があります。

そのへん、「ネット詩f」の考察では考慮されていなくて、すこしずれているようにも感じる。
詩の話 | comments(1) | trackbacks(1)

書いとかないといけない。

2007.03.30 Friday 20:18
ま、選考に関わっているのですが、
文学極道の年間各賞、発表されました。

http://bungoku.jp/award/2006.html

ということで。

詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

500円の詩集欲しいな。

2006.07.31 Monday 19:46



いあ、詩集の文庫化という話なのだけれど、
というか今思いついただけなので以下思考の垂れ流し。


“出会い”ということを考えるなら、
詩集は高いままで、んじゃどうすりゃいいって考えると、
まーやり方はいくつかあるけど、
一つは流通経路を変える。あるいは選択肢を増やす。
詩集の流通経路ではなく、詩の流通経路ね。
別に詩集でなくてもいい。
数年前に考えてたのがTシャツデザインで、
これは最近たっきーがきちんとやり始めてる。
個人的にはビジュルアポエムとTシャツデザインの親和性に注目してて、
リスク、というか、あたりまえだけど、
“デザイン”と“作品”が、“デザイン”の土俵で競合するのね。
そこがネックになるとは思う。


で、じつはネットで“詩”を流す、流通させるなんてのは、
現状では愚策であって、そのへんの開花はあと5〜10年先、
前にも何度か言ってるけど、
媒体の垣根がなし崩し的に薄れていく状況の中で起こり始める。
現状でネットを使うなら、
それは流通経路ではなく宣伝媒体として用いるのが賢いやり方。
(詩の出版社はそれすらやってないのだけれど。サイトをかちゃかちゃそれなりに作って通販できますとかやっても、そういうのは“宣伝”のうちに入らん)


で、現状の流通経路としては“まだ”紙が強い。
じゃぁ紙の中で形態を変えて流通させるっていう手段があって、
書籍文化の中で成功してるのは文庫じゃんか、と。
(あと、成功しつつあるのはフリーペーパー)
現代詩人文庫ももう出涸らしみたくなってるので(笑)、
再廉価版として詩集の文庫化はアリなんじゃなかろうか。
「詩の森文庫」なんかとはまた異なったターゲッティングが可能だとは思うけれど、どうだろう?
いっそのこと広告入れてフリーペーパー化するのもアリだと思うけどね。
詩集内広告って確か誰か考えてたような気がする。記憶の片隅に。
うえだかなよさんだったかな?





詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

耳に痛い。

2006.07.01 Saturday 23:26



去年の年末に買った「討議 詩の現在」を
ようやくきちんと読み始めている。んが、
初っ端から耳に痛い言葉がずらずら出てくる(笑)。


42ページ。佐々木幹郎さんの発言。長文引用。



問題は、いまの十代、二十代の詩の書き手にとって、詩の歴史そのものがないということです。同人誌でもインターネットでも、基本的に彼らは自分の詩と仲間の詩しか読んでいない。詩の書き手だけでなくて、近代詩や現代詩を専攻している若い学者たちも、オリジナルに戻りません。五、六年前の論文に引用してあるものを前提して発言しはじめる。それ以前のものはすべて「神話」になってしまうんです。いかに歴史が無視されて、滑り台を滑るように詩が論じられていることか。惰性というべきか、無視することの快感というべきか、そういう時代に入っていることを、それが駄目だというだけでなく、まず認めないといけないと思うんです。だから、今日はそこへむかって届く言葉でしゃべりたい。論理のレベルを保ったままで。その場所から詩の歴史とは何かを語っていかないと、詩について論じるということが断絶したままになると思うんです。この時代に詩を論じるメディアや詩論を書く人間は、そのことをよく考えなくちゃいけない。



これは2001年6月の発言。5年経った今の状況はどうだ?
と、言わずもがなですが。
総括的状況では何にも変わってないと思うし、
個人的には、インターネットはその特性上、
史的蓄積が困難な媒体だとも感じている。
でもそこで何らかの蓄積を行っていかなければ、
いつまでたっても無視されたままだ。
というか、状況的に見るに値しないと言われても、
ある種、仕方ない面“も”ある。


別の側面から考えてみる。歴史的断絶について。
断絶については2003年に詩と思想のコラムで述べている。
http://poenique.jp/jisakusi/ronkou/jihyou0312.htm


“ネット発”という言葉も確かに魅力的だろう。
“ネットから新しいものを。新しい流れを。”
もちろんその動きは否定しない。
そうやって動いて、そこから始まるものは貴重な一歩だ。
ただ、その“新しい”ものの始点はどこにつながっているのか。
「新しい」とは、
表面的にはそれまでの流れを排斥するように見えるかもしれないが、
芯の部分で完全に排斥しているとしたら、
それを果たして“新しい”と言えるのか。言ってよいのか。


たまに書くけど、
じゃあそうやって“現代詩”を排斥して“新しい”流れができたとして、
その流れの50年後、60年後はどうなっているのだろう。
皮肉にも、流れをいったん断ち切って“新しく”生まれた戦後詩、(あるいはさらに領域を広範に見た場合の)現代詩の閉塞状況と同じになっている可能性はないか。
そういう危惧をいつも持っている。
もっと長い、数百年のスパンで俯瞰した場合、
この断絶期間が、歴史的空白の時期になるとも限らない。


と、思うのは、考え過ぎだろうか。
たぶん、極論に近いとは、自分でも思っているけど、
でも、頭から消えることはない。


詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

狼。

2006.06.10 Saturday 23:23



光冨郁也さんの個人誌「狼」が届く。
言わずと知れた(笑)、文学極道の特集。

http://poetry.mond.jp/


まー、自分が関わってる場所をどうこう言うのもアレですが(笑)、
きちんと読めるものがちゃんと揃ってんなー、と。

詩のレベルを語るときに媒体の違いなんか関係ないといつも思っているので、
個人的にはこのくらいの作品が揃うのはあたりまえだと感じている。
揃わない方がおかしい。


5、6年くらい前の状況から見れば、
ネットに対する穿った見方もずいぶん減っていて、
それは前進だとは思うけれど、
でも、入り混じったりはしてないのね。
相変わらずの平行線で、
実名出しちゃうけど、小笠原鳥類さんなんかは、
ネットなんて興味ないんで見ないとか言ってるし(笑)、
でもそれは、んー、
最近は、しょうがないのかなーとも思ってる。
諦めとかではなく、それこそが媒体特性の違いなんだろうかと。

と考えると、今後進めることってのは、
相互認知と並列的共存なのね。
それにはネットからのアクションは絶対に必要だと思う。
その中で、poeniqueはpoeniqueなりにやってるし、
それとは別に、文学極道みたいな尖がったアプローチはアリだと思ってるし、
そのへんはやっぱ、主催のダーザインさんらしいなぁと(笑)。


文学極道のスタッフってのは、じつはかなり思ってることバラバラで、
スタッフルームの中、
スタッフ間で罵倒し合ったりすることもたまにあって(笑)、
たぶん俺なんか、紙媒体に尻尾振ってる傀儡のように思われてるかもしれないけれど(爆)、
でもそのへんは、話せばきちんと理解してくれる人ばかりなので、
とても安心しています。

で、今回、選ばれたものを、きちんと紙にして各所に配布してるってのは、
とても意義があると思うし、
そこからまた何か発生していくといいっすね。
でもまぁ、発信された側がどう受け止めるかって問題だけどな(ニヤリ)。
ともあれ、そういう場に、ほんのちょっとだけだけれど、
参加させてもらってるってのは、ありがたいことです。感謝。


詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

詩手帖

2006.05.31 Wednesday 19:36



さて。
詩手帖をぱらぱら立ち読み。
若い詩人の特集。


去年の春くらいだったかな。
とある飲み会に詩手帖の人たちもいて、
若い編集の人が小田さんに
こういう特集をやるべきだと詰め寄ってた(笑)。
きちんと結実したようです。


んで、批判とかそういうのではなく、
俺が普段活動している場所からのスタンスとして、
詩人たちの出自、というか、詩と出会うきっかけが、
20歳代でもまだ紙なんだなぁと、そういう。
かなり穿った見方で言えば、
掲載者の年齢が若くなっただけで、構造は変わっていない。
でも今後、そういう垣根は
なし崩し的になくなっていくんだろうとは思うけれど、
もう少し、時間がかかりそうな気配も、この特集からはうかがえたり。

すんません。
でも、特集自体はとても意義のあるものだと思います。
前述の若い編集の人たちの熱意も見ているから。
つか、この号は買う(笑)。


でも詩手帖投稿欄の(多めに見て)半分くらいが
ネットで見知ってる人たちって状況もあって、
まー今後のいろいろな方向性(可能性)はあるけれど、
最悪、ネットがマイナーリーグみたいな扱いになるのは
やっぱりイヤだなぁと思う次第。

だからこそ「ぽえ。」なんてのもやってるし、
“詩のある場所”がすでに紙だけではなくなっているのは明らかで、
それならやっぱり、出版社というか、
詩という文化を担っているという自負があるなら、
見て欲しい、というより、見るべきなんじゃないの?
とは、つねづね思ってます。
そんなふうに考えてるとはまったく思ってないけど、
「どうでもいい」なんてスタンスは、まずないよねぇ?
少なくとも媒体によって詩のレベルが変わるなんて話はあり得ないし、
(前述の投稿欄の状況が逆説的にそれを証明している)
逆に、「最初に詩と出会う場所」として
ネットが重要な位置を占めて“しまって”いるからこそ、
放っておくのはどうなの? という危惧も持ってる。


あ、もちろん、詩人はどうでもいい(笑)。
詩人は好きなところで好きな詩を書いてりゃいい(笑)。



詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)

謝罪。

2006.04.29 Saturday 03:43

うー。
望月さんから連絡あって、
結局、詩手帖にはもろもろの情報伝えてないそうです。
うー。お騒がせいたしました。

ごめん。詩手帖にもあらぬ言いがかりをつけてしまった。
申し訳ない。すみません。


詩の話 | comments(0) | trackbacks(0)